トゥールスレン虐殺博物館(S21)【カンボジアポルポト政権下の大虐殺の舞台】 - 旅するシンガーソングライター|内田美穂旅するシンガーソングライター|内田美穂
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トゥールスレン虐殺博物館(S21)【カンボジアポルポト政権下の大虐殺の舞台】

現代史の中で、最も残虐な出来事の1つに、

カンボジアでポルポト政権時代に行われた大虐殺がある。

 

ここトゥール・スレン虐殺博物館(s-21)は、1975から1979の間に行われた、その悪夢の出来事の舞台となった場所だ。

 

トゥール・スレン虐殺博物館とは

トゥール・スレン虐殺博物館(別称:S-21)は1975から1979の約4年間に、クメールルージュによって連行された人たちが、拷問と虐殺を受けた収容施設だ。

 

この頃、ポルポト政権下のカンボジアでは、無謀な社会主義改革が強行され、彼らの改革に反対する者と見なされた人たちは、皆、逮捕され、ここへ連れてこられ、拷問を受け、そして虐殺された。

 

この場所には1,2000人から20,000人の人々が収容されていたと言われており、確認された生存者は、わずか12名。

犠牲となったのは、農民や技術者、僧侶、外国人、学生、弁護士など皆、罪のない人たちだった。

 

この場所はもともと、生徒たちの笑い声の溢れる高校であったが、クメールルージュというポルポトの率いるカンボジアの政治勢力ににより、拷問と大虐殺の行われた収容施設へと変わってしまったのだ。

 

人々の連行と虐殺は、組織を意味する「オンカー」の命令によって行われ、ほとんどの人は、その理由を知らされることさえなかった。

 

現在では、ポルポト派の行った残虐行為を後世に伝えるため、ここS-21はトゥールスレン虐殺博物館として保存され、ユネスコ記憶遺産に登録されている。

 

トゥール・スレン虐殺博物館(S21)の施設について

墓地と石碑

トゥール・スレン虐殺博物館の入り口を入るとすぐ、墓跡があるのが目に入る。

これは、s21で最後に亡くなった14人の収容者を追悼するためのものだ。

 

1975年4月17日、プノンペンに入場したクメールルージュの革命軍は、住民を地方に強制移動させ、3年8ヶ月と20日の間、カンボジアを支配した。

 

クメールルージュは、プノンペンへの入場から約6ヶ月後に、セキュリティセンター21(現在のトゥール・スレン虐殺博物館)を設立する。

 

1979年1月7日に、ベトナム軍と、指導者のポルポトから離脱したカンボジア人との統一軍に、クメールルージュは追い払われ、その2日後、解放者らがs21 を発見する。

 

解放者らがS21を発見した際、ここで14体の遺体が発見された。

 

尋問を受けていた人が殺害され、残されていたのだ。

 

身元を確認することは不可能だったため、遺体は火葬され、追悼の意味を込め、ここに墓石として白い石が置かれたのだ。

 

職員たちは既に逃亡しており、記録も破壊されていた。

 

 

さて、墓地の近くには大きな赤い文字の書かれた石碑がある。

 

この石碑には、「ここで起こったことの記録は、全人類にとって貴重であり、ユネスコに登録されている」という意味がある。

 

その残酷で非人道的な出来事が何世代にも渡り記憶され、二度と起こることのないようここに記してあるのだ。

 

有刺鉄線付きのフェンス

クメールルージュは、有刺鉄線付きのフェンスにより、S-21からの脱出と侵入を防いだ。

 

国を運営していた人々は、オンカーの名において、恐怖の元における支配を行った。

 

このフェンスは、オンカーたちの猜疑心の表れである。

プノンペンには、もうほとんど人はいなかったのにも関わらず、それでもこのような厳重なフェンスを施したのだ。

 

この地域に残った数人の労働者たちは、ここを

「人が一度入ったら二度と出て来ない場所」と呼んだ。

 

 

A棟

 

A棟には、特別な収容者が収容され、時にその身分が記録から抹消されるほどの重要人物もいた。

 

一階の窓の上の方に、板で塞がれた部分があるのがわかるだろうか。

ここは、S21が高校だった頃、換気口だった部分だが、拷問中の叫び声を外に漏らさないため、職員が換気口を板で塞いだのだ。

 

拷問中、叫び声を上げることは規則で禁止されていたが、部屋に閉じ込められた収容者が拷問を受けると、もちろん叫んだ。

その声は部屋から漏れ、他の収容者たちも、その声を聞いたのだった。

 

もし、ここから逃げようとする人がいれば、職員が、刃物や棍棒で殺害した。

銃声を聞かれることを恐れたからだ。

 

 

A棟には、全部で10室の部屋がある。

これらの部屋は、収容者たちが拷問を受け、虐殺を受けた場所だ。

 

部屋には、鉄のベッド、鉄の足かせ、排泄物用の弾薬箱が置かれている。

収容者たちは、このベッドに縛り付けられ、拷問を受け、そして殺害された。

 

ベトナム軍がここを発見した時、このベッドでは、鎖で繋がれ、手足が切断された状態の遺体が発見された。

 

当時、部屋は血で染められており、今でも床には、その消えない血の跡がこびり付いている。

 

この場所には、何ヶ月もひどい匂いが残ったという。

 

 

 

また、部屋には学校の机と思われるテーブルがあり、この机で収容者たちは自白の供述を書くことを強制された。

その自白の供述が、尋問係の望む内容でないと、拷問はいつまでも続くのだった。

 

***

【尋問係の証言】

私は敵を支配していました。

敵の命など考えていなかった。

私が手を上げた時、私の心は私の頭を止める気もなく、殴る蹴るも止めることはなかった。頭と手は一体となっていた。拷問はそんな感じ。

供述が取れたあとは殺した。

***

 

1979年に、最初にここを発見した人たちは一体どんな気持ちだっただろう。

 

彼らは、訓練を受けたベトナムとカンボジアの軍隊だったが、それでもどのように感じただろうか。

 

誰もその存在を知らず、何が起こったかも知らないまま、この場所発見した時のことを想像してみてほしい。

 

 

 

ここに収容されていた人たちの写真

(Photo:Christian Haugen

 

トゥール・スレン虐殺博物館には、ここに収容されていた人たちの、おびただしい数の写真が展示されている。

その写真の多くは、いまだに身元が分かっていない。

 

1979年、軍隊がプノンペンに押し寄せるに連れ、ここの職員はネガフィルムや写真を全て破棄するよう命じられたが、職員の多くは任務が完了する前に逃げなければならなかった。

 

回廊に無数に展示された彼らの写真を見て歩くと、「助けて」と訴えかけているように思える。

 

助けなど来るはずないのに、それでも僅かな希望を抱いて、助けが来ることを待ち続けていたのかもしれない。

 

 

ここへは、行方不明になった家族や友人の写真があるかどうかを確かめるために、後に多くの人たちが訪れている。

ここで、家族や友人、知人の写真を探す人たちの気持ちは、一体どんなだったろう。

 

 

偶然、親戚や友人の顔写真を見つけてゾッとしたという人の話も、記録に残されている。

 

拷問器具の展示室

トゥールスレン虐殺博物館の中には、当時、実際に使われていた、拷問用の特別な器具も展示されている。

 

乳首をペンチで潰し、そこにムカデを這わせたりしたときに使ったペンチや虫かご、水で溺れさせるための開発された器具などが置いてある。

 

一体、誰がこんな酷いこと考えつくのだろうという程、残酷なものばかりだ。

 

独房

(Photo:Paul Arps

 

ここは、収容者たちの入れられていた独房の写真だ。

 

ここが、彼らが、虐殺される前に見ていた景色なのだ。

 

窓もなく、人1人が入れるだけの狭い粗末な作りの独房で、彼らは最期に何を思ったのだろう。

 

慰霊碑

中庭には、慰霊碑が建てられている。

 

慰霊碑のすぐそばにある黒い石には、金色の字でここで亡くなった人たちの名前が刻まれている。

毎年、5月20日は、この残虐な出来事を忘れないため、追悼の日慰霊祭が行われている。

 

現在、カンボジアの高校生は、全員、過去にこの国で何が起きたのかを学んでおり、悲劇を繰り返すことのないよう、多くの人々が記憶の伝達に勤めている。

 

S-21で行われていた、恐ろしい拷問とその方法

 

ここで行われた拷問は、オンカー自体の活動と同様に秘密事項であり、拷問はA棟や運動場の空き家で秘密裏に行われた。

収容者は、何週間も何ヶ月も拷問を受け、1日に3回拷問を受けることもあった。

拷問された人々は、時々早く死にたがったという。

 

連行方法

S21の被害者たちは、極秘秘密守るため、目隠しされ、何も見えない夜間にトラックで連れて来られた。

 

トラックがここへ着くと、彼らはトラックから放り投げられた。

みんな、暗くて何も見えず、転ぶと職員たちに蹴られるのだった。

それを見て、「メクラやろうみたいだ」と職員たちは笑うのだった。

 

 

人間性を抹消するためのプロセス

 

人々はここに連行されると、まず写真を撮られ、身長や出生地などの人物情報を記録された。

最も重要視されたのは、革命前に就いていた仕事についてだった。それらの情報は、反逆の証として入念に記録された。

 

またS-21では、名前は使用されず、連行された人々は、部屋や列番号で呼ばれ、彼や彼女ではなく「それ」と呼ばれたのだった。

 

鉄棒と壺

この写真は、校庭の鉄棒と、その横に並んだ壺を写したものだ。

 

ここが高校だった頃、生徒たちはこの鉄棒に登って遊んでいた。

しかし、ここがS21として使われるようになってからは、この鉄棒は、絞首台として使用する拷問の器具へと化した。

 

収容者は目隠しをされ、鉄棒の上から吊され、彼らが意識を失うと、人の排泄物がいっぱいの壺の中に頭から押し込められるのだった。

そして意識が戻るとまた吊し上げられるのだ。

 

収容部屋で

 

収容者は、他の収容者たち9人程と一緒に、一続きになった足枷のような器具で繋がれていた。

 

彼らは、横たわらせられており、起き上がりたい時は護衛に、

「同士、起き上がってもいいですか」

と聞かなければならなかった。

 

収容者同士は喋ってはならず、許可を請わない場合には撃たれた。

 

また、食事はほとんど与えられなかった。

 

 

知識のない医者

 

処刑者がここで死にそうになった時は、生き延びさせ、更なる拷問を与えるために医者に送られた。

 

 

鞭で打たれた後にも医者に送られるのだが、薬はなく、塩水を背中に流されるだけだった。

 

本物の医者は処分され、ここで医者と呼ばれた者は、たった4ヶ月訓練を受けただけの人たちだった。

 

患者は、小麦粉と砂糖と酢を混ぜた、「ビタミン」と彼らが呼ぶものを注射された。

注射の練習は枕で行われた。

 

ほとんどの場合、薬は野菜だった。

 

時に人体の構造を知るため、一部の収容者を生きたまま解剖することもあった。

 

他の収容者は、クメールルージュ軍のために採血され、これは「血の粛清」と呼ばれた。

収容者は、目隠しと猿ぐつわがされ、頭はベットに固定され、医者は血液袋につながったチューブを突き刺し採血をした。

採血後、彼らは放置され、目は膨張し、感覚は麻痺していたという。

 

彼らがそのまま亡くなると、近くに穴が彫られ、そこに死体が埋められた。

 

 

用を足す際に

 

収容者たちは、金属製の容器とプラスチック製のボトルを渡され、そこに用を足した。

用を足す時は、注意を払わなければならなかった。もしこぼせば、綺麗になるまで床を舐めさせられたからだ。

 

虚偽の自白供述の強制

とある機械工の男性は、収容中に就いた仕事で繊維工場に配属された際、

「繊維工場で生地を無駄にし縫い針を壊し、機械ベルトを振り切った」

としてもいないのに自白をさせられた。

 

また、聞いたこともないアメリカのCIAという機関の人の名前を、無理やり挙げさせられた。

 

だが、彼がタイプライターの修理をできることをs21の職員が知った途端、彼は一般の収容者から離され、タイプライターの仕事をさせられるようになった。

 

機械工としての技能に、彼は救われたのだ。

 

自殺をしようとした人たち

拷問された人々は、時々早く死にたがった。

自白供述用のペンで首を刺した人や、灯油ランプを頭からかぶった人もいた。

 

この写真では、教室のベランダに、有刺鉄線が張り巡らされているのが見える。

 

拷問を受けた人たちが、ここから飛び降り、自殺をしたことがきっかけだ。

 

当時の収容者に課せられた規則

ここにきた収容者には、下記のような行動規則が定められていた。

 

規則1:質問されたことにそのまま答えよ。話を逸らしてはならない。

規則2: 何かと口実を作って話を隠蔽してはならない。尋問係を試すことは固く禁じる。

規則6:鞭で打たれている間、電流を受けている間は、一切叫ばないこと。

規則10:これらの規則を破ったら、10回の鞭打ちか、五回の電気ショックを与える。

 

原文では一風変わった言い回しや、一部クメールルージュ特有の政治用語が使用されている。

 

誰がここへ連行され、虐殺されたのか

 

連行・虐殺された人たち

ここで犠牲になった人たちの数は、一万二千人以上。2万人以上いた可能性もあると言われている。

ここでは、全員が殺害されなくてはならならず、クメールルージュは、それを「敵の粛清」と呼んだ。

 

では、ここで殺された人たちは一体どんな人たちだったのか。

 

 

収容者に関する多くの記録は破壊されたり、紛失したりしたが、ここで初期の頃に殺害された人々は、ロン・ノル将軍の支持者たちであったと言われている。

 

その後は、ロン・ノル将軍支持者かどうかに関わらず、ポルポトの新しい純粋な社会の敵として見なされた様々な人々が、虐殺の対象となった。

 

主にその対象となったのは、オンカーが「新人民」と呼んだ、きちんと教育を受けた人、教師、医師、法律家、外国語が話せた人、柔らかな手をした人、僧侶、メガネをかけた人など、都市に住む全ての人々だった。

 

アメリカの爆撃を逃れるためた農村から来た人でさえ殺された。

様々な人々が、栄光的の国、オンカーの潜在的な敵とみなされた。

 

クメールルージュに異議を唱えたり、反抗したりした人たちも同じだ。

 

彼らは、死刑が当然の犯罪者として見なされた。

 

だが、実際には普通の市民で、ほとんどの人が何も罪を犯してなかった。

 

 

また、殺された人たちの、その家族さえも殺されなければならなかった。

クメールルージュは「雑草を取り除く時には、根っこから取り除け」という革命のスローガンに則り、収容者を連行する際は、血縁単位の逮捕をしていたからだ。

殺された人の家族や親戚が、復讐を企てることを恐れたことなどが理由である。

 

 

そして、教育を受けた人の他に、外国人も殺害の対象となった。

 

犠牲となった人の中には、オーストラリア人、タイ人、インド人、パキスタン人、イギリス人、フランス人、ベトナム人などがいた。

 

S-21の職員たち

 

被害者となった人たちのうち、150人以上がここの職員として働いていた。

彼らもまた、反逆者として連行された人たちだった。

中には、少なくとも89人の子供がいた。

 

 

職員らの教育はスローガンを暗記し、行動規則を学ぶだけのものだった。

読み書きができない人がほとんどで、彼らは簡単に操られた。

 

彼らは

「国の魂。党の右手」

伝えてられていた。だが、最後には彼らの多くが、ここの収容者となった。

 

S-21の所長ドッチが定めた拷問・虐殺のルール

拷問のルール

S-21の所長であったドッチは、拷問のレベルを

  • マイルド
  • ホット
  • チューイング

の三段階に分類した。

 

チューイングは容易に自白しそうない人々や、重要度の高い収容者などに対して行われた。

 

拷問は、体系的で非人間的であるべきと考えられた。

 

ドッチの定めた拷問の規則に以下のようなものがある。

 

  • 拷問の目的は反応を得ることであり、楽しみのためではなく、早く答えを得るために収容者を苦しめなくてはならない。
  • 収容者を脅し、破壊しなくてはならない。
  • 拷問は、自身の怒りをぶつけるものではない。
  • 殴る行為は脅しのために行い、決して死なせてはいけない。
  • 拷問の前には健康状態を確認し、棍棒の点検を行わなければならない。
  • 拷問は、焦らず落ち着いて進行しなければまならない。収容者が死ねば記録を失うことになる。

 

また、職員たちは、革命の決意と規律維持するよう命じられ、定期的に行われる自己批判会議に出席しなくてはいけなかった。

 

職員は収容者に対していかなる感情も持つべきではないとされた。

だが実際には、職員がいかに若い収容者が来ると喜び、人目を盗んでは彼女たちに触れていたという記録が残っている。

 

中には、尋問をしていた女子に特別な感情を抱き、欲求を発散していたものもいた。

 

 

虐殺のルール

収容者は、ドッチが承認が降りた時のみ殺された。

自白供述に署名がなされると、どっちの承認の上、規則に則り殺害されるのだ。

尋問が終わり、記録作業が終了すると、記憶を抹消するために殺害されるのだ。

 

家族や友人も連絡網とされ、それを理由に殺すことができた。

 

時々、収容者が、拷問中に間違えて死んでしまうこともあり、そのような場合、不正な死は上官に説明して報告しなくてはならなかった。

このようなミスを犯した職員が、収容されることもあった。

 

オンカーとは

オンカーは、クメールルージュ(カンプチア共産党)の中枢を意味する隠語で、オンカーは、カンボジア0年、身分の差をなくし、新しく社会を作り直すために設立された。

 

クメールルージュが、1975年4月プノンペンに入場した時、プノンペンには300万人もの人が住んでいた。

 

その半数は、ロン・ノル軍と、クメールルージュとの戦い、そして8年もの間続いた、アメリカの爆撃からの避難者だった。

 

爆撃は、アメリカと、ベトナムとの対戦の一部であり、アメリカでは、カンボジアでの爆撃は秘密作戦と呼ばれた。

 

クメールルージュがプノンペンを占領してからの町の様子

 

強制移動

1973年までに、アメリカ軍が、第二次世界大戦で使用した全ての爆弾よりも多い数の爆弾をベトナム戦争で投下すると、10万人以上が犠牲となった。農民がその大半を占めていた。

 

100万人以上の人々が都市部に追いやられ、ホームレスになり、仕事を失い、怒りに満ち溢れていた。

 

カンボジアの革命軍が、プノンペンへ入場した際、市民らは笑顔で彼らを迎えた。

これらの苦しみに終わりが来ることを信じていたからだ。

 

しかしそれは悪夢の始まりに過ぎず、軍は、彼らをプノンペンの町から強制的に待機するよう命じたのだった。

 

 

同じ日の3時間後、兵士らは市民に「更なる爆弾からの、安全のためだ。3日で戻って来られる」と伝え、2回目の強制移動を命じた。

 

だが、それは嘘だったのだ。彼らはプノンペンには戻れなかった。

 

住民らの大半は、裸足のまま、荷物をまとめて移動した。

 

何千人もが、移動中に亡くなり、移動を拒んだら即座に処刑された。

 

プノンペン以外の他の大きな街も、同じようにしてほぼ空っぽになった。

 

人々の生活

 

教育を受けた人たちは、新人民と呼ばれ、状況は旧農民よりひどいものであった。

けれど間も無く皆、植えに苦しむこととなる。

 

人々は、食事を自分で作ることは禁止されており、マンゴーをもぎ取ることでさえ、それはオンかーからの窃盗とみなされていた。

 

もぎ取れば、それは死を意味することとなる。

 

市民与えられた食事は、少量の水のような食事のみで、当然ながら、オンカーはもっといい食事をとっていた。

 

次第に食事の配給は一日2回になり、状況は更に悪化していった。

 

 

ポルポトの将来構想は農業を基本としており、どんな地形でも1ヘクタールにつき3キロの米を納めることを強いた。

だが、そんなことは不可能だった。

 

都市の人々は、米の育て方など知らない。

もちろん、オンカーも知らなかった。

 

そうして約300万人、人口の4人に1人が、飢えや過労、病気で死んだ。

 

 

生き延びた人の人生さえも永久に変わってしまったのだ。

 

 

オンカーによるプノンペンの破壊

 

ポルポト政権化のカンボジアでは、伝統的な信仰は禁止され、オンカーのみを信じるべきとされた。

仏教の僧侶は殺され、寺院や他の神聖な場所も、死体置き場や交流センターになった。

 

クメールルージュは、プノンペンではカトリック寺院も全壊させ、仏像も破壊した。

イスラム信仰を持つ、ベトナム国境のチャム族は、特にその標的となった。

 

エスカレーターまであった映画館のある当時最もモダンな建物も廃墟となった。

革命を賛美する以外の芸術は、頽廃として禁止されたのだ。

 

クメールルージュは、そうして経済も破壊した。

 

繊維工場も機械維持のため、技術者を中国から連れて来なければならなかった。

ほとんどの機械工や技術者は殺されたか、強制労働に送られたからだ。

 

 

クメールルージュは、恐怖と、放棄と重労働が成功をもたらすと信じ、その意思こそが、経験よりも重視された。

 

 

クメールルージュがプノンペン入場すると、大学や会社寺院など全てが廃墟と化した。

ロン・ノル政権の末期、プノンペン郊外では争いが続き、多くの建物が破壊された。

 

クメールルージュは、銀行も爆破した。

オリンピックスタジアムも破壊された。

お金を廃止し、教育機関も廃止した。

 

許された教育は革命プロパガンダと自己批判会議のみだった。

 

キリングフィールド

キリングフィールドは、ここに被害者の遺体を埋めることができなくなってしまった時に設立された。

他のセキュリティセンターの収容されていた人たちも、キリングフィールで殺された。

 

S21の収容者たちは、極秘秘密守るため、目隠しされ、何も見えない夜間にトラックでキリングフィールドまで運ばれた。

 

彼らは、新居への、引越しと伝えられていた。

 

彼らがキリングフィールドに着くと、穴の淵に跪かされ、殺された。

 

銃弾を節約し、音をなるべく立てないように頭を鉄棒で殴るのだった。

そして念のために、その後喉を切り、とどめを刺した。

 

二万人がキリングフィールドで殺害されたと言われており、多くの遺体は未だ回収されていない。

 

 

彼らの頭蓋骨は、重要な法医学的証拠として、 今でも大切に保管されている。

 

 

最後に

この施設で2015年に行われた追悼式典において、ドイツの大使が、ドイツやカンボジアのような国で起こった暴力の歴史から私たちは何を学べるかについて話された。

 

その話を最後に、シェアしたいと思う。

 

ドイツの大使の言葉

***

国家的トラウマに苦しんだのは、カンボジアだけではありません。

1940年代、ヒトラーの元、ドイツもまた、独裁者の政治の元、残虐性に苦しみました。

何百万人もの人々が虐殺されました。

 

カンボジアと同様、ドイツはいまもって回復、責任、癒しと言った課題に取り組んでいます。

 

ドイツ政府は、地球の裏側から、この追悼の施設設立のための基金を送りました。

 

この施設は人間の尊厳を無視する人たちや、体制に注意するよう思い起こさせてくれます。

 

どんな政治的目標やイデオロギーであろうと、それが例えいかに有望に思えたり、重要に思えたり、望ましく思えたとしても、個人の尊厳が尊重されない政治体制を正当化することは、決してできないのです。

 

21世紀においても残虐行為は続いている。拷問は多くの国で合法のまま許されている。まだやるべき仕事が残っているのです。

***

 

 

「今日からここを訪れたあなたも、記憶の補完者となります。どうか周りの人に、ここで何が起きたのかを聞かせてあげてください。

そして、現在のため、来るべき世代のために、人間の尊厳、思いやり、平和があらゆるところに実現するように、努力していこうではありませんか。」

 

音声ガイドで語られていた、この言葉がとても印象的だった。

 

 

どうか私が今日書いたことが、たくさんの人に届きますように。

それは、私たちが決して忘れてはいけないことだから。

 

 

情報元:トゥール・スレン虐殺博物館の音声ガイドツアーより

 

 

 

 

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この記事を書いた人

旅するシンガーソングライター

1994年生まれ/埼玉県出身。 高校生の頃から、ラジオやライブハウスに出演し、シンガーソングライターとして活動。 ​早稲田大学を卒業後、一年のギャップイヤーを経て、2018年4月に広告会社に入社するも、世界一周を決行するべく退職。 現在は、ギター弾き語りで旅費を稼ぎながら、世界一周中!エベレスト等ヒマラヤを二度登山したりと「やらない後悔よりやった後悔」がモットーの旅人。 もっと見る

  uchidamiho2929@gmail.com

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