エベレスト10日目 無心で下山
薄暗い廊下の、突き当たりのダイニングの扉から
優しい日差しと、カチャカチャと食器の鳴る朝食の音、ざわざわと会話を楽しむ眠気の混じった声が漏れてくる。
誰もいない、明かりのない廊下を渡り、眠たい目をこすりながら、その明るさの方へと歩いていく。
ダイニングの扉を開けると、すでに多くの登山者たちが、朝食を楽しんでいた。
広いダイニングをぐるりと見まわし、空いている席へと腰掛ける。
すると、昨日夜遅くまで語り合った、日本在住のアイルランド人のおじいさんが、私の方へと向かってきて、
「日本に帰ったらぜひまた会いましょう」
と言いながら、白いメモの切れ端に、自分のメールアドレスを書いた紙を私に渡してくれた。
彼はこれから、カラパタールへと向かう。
私は下山組だ。
もうこの山で会うことはないだろう。
「頑張ってください!日本で一緒に登山しましょう!」
と手を振りお別れした。
この日の朝食に注文したのは、マッシュドポテト。
最初、これが出てきたとき、私は別の人の注文と間違えたのかと思った。
マッシュドポテトというよりは、なんだか、、
なんだか、
例えが何も思い浮かばない。
恐る恐る、とりあえず、口に運んでみる。
と、
口に一杯に広がるミルクとバターの風味に、塩胡椒のアクセント。
ものすごく美味しい食べ物のように思えた。
今でもこの味をもう一度食べたいと思うほどだ。
まあ、今食べたところで、さほど美味しく感じるわけではないのはわかっているのだが。
とってもシンプルな味だが、山の食事はそれほど美味しく感じるのだからすごい。
ごちそうさまの後は、凍っていて水の全くでない水道で歯を磨くのは諦め、水筒の水で歯を磨いた。
さあ、今日は標高4900mのルクラから、3400mのナムチェまで、一気に降るため、早めに出発だ。
行きも通った同じ道であるはずなのに、全く違った景色に見える道を、どんどん下っていく。
せっかく登ってきた山を、もう降ってしまうことに少し、寂しい気がしながらも、どんどん元来た道を辿っていった。
本当なら、もう少し、この山に滞在したいくらいだ。
歩きながらではなく、じっと座ってこの景色を眺めるためだけにここに滞在していたい。
が、ガイドがいる手前、そうも行かない。
途中ですれ違った男性は、体の何倍もの大きさの荷物を一人で運んでいた。
これだけの荷物を持って滅多に人にすれ違わない中、一人ぼっちで歩いていたら、きっと途中で寂しくなったり、誰かに助けを求めたくなってしまうだろうに。
私たちは、この日ほぼ一言も喋らずに黙々と元来た道を降った。
朝早く起きた割に昼食が遅かったため、異常な空腹に耐え切れなくなった頃、私はガイドのサンディップに空腹を訴えた。
すると、ポッケから出してきたのがインスタントラーメンだ。
私がそろそろお腹がすく頃だというのを見越して、さっき通り過ぎたロッジでこっそり買っていたのだという。
こっちの人は、袋から粉末スープを取り出し中身を細かく砕いた後、粉末を麺にふりかけ、シャカシャカ振って食べる。
お湯さえないが、最高に美味しいインスタント麺だった。
空腹と、山の空気は最高のスパイスだ。
私は、歩きながら、あることに気づいた。
すれ違う人たちに、
「ナマステ〜」
と毎日のごとく挨拶をしているのだが、今日は誰も私に挨拶を返してくれないのだ。
それどころか、まず目を合わそうとしてくれない。
なんだか無視されているようでとても悲しい気持ちになり、
たいところだが、理由がわからないので、なぜだろうという興味の方が優っていた。
そうして私たちは、4日もかけて登ってきた道のりを、早歩きでわずか6時間で降ってきてしまった。
この間、私はほぼ無心だった。
やっと標高3900mのタンボチェへたどり着いたとき、
「やっと人間界に戻ってこれた」
そんな気分になった。
今朝までいたルクラに比べ、空気が濃いのを実感できたし、気温もぐんと上がっていたからだ。
昼過ぎとはいえ、これがカラパタールやエベレストBC、ルクラであれば、持っていた全ての服を着ていても、寒いほどだ。
だがここは違う。私は長袖一枚の上に半袖を1枚着ているだけだというのに、汗をかいていた。
ロッジについて、荷物を降ろし、まずしたことと言えば、服を脱ぐことだった。
ダイニングの席に着き、サンディップが私の顔を写メって見せてくれた時、私はびっくりして、大笑いしてしまった。
自分の顔が真っ白だったからだ。
そういえば、ヒマラヤの強い紫外線のせいで、自分の顔が真っ黒に日焼けしていることに気がつき、手遅れとわかっていながらも、日焼け止めを自分の顔に塗りたくったのだ。
これで、誰も私と目を合わそうとしてくれない謎が解けた。
それにしても、なぜサンディップは今になってその事実を伝えてきたのだろう。
ウェットティッシュで顔を拭き、元の真っ黒に日焼けした顔に戻ると、私は注文したマカロニとマサラティーを恥ずかしさと共に頬張った。
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